現代の文房四宝事情
私たちは使う側です。青柳さんは作る側として、書道には欠かせない硯についてどうお考えなのかお聞きできればと思います。(佐藤)
- 青柳
- 書作品を時代に当てはめて見ていきますと、江戸、明治、大正、昭和と作品の巨大化が進んでいます。日本だけでなく中国も。
そんな中、「私たちも本当は磨って書いたほうがいいんだよね」と申し訳なさそうに話される先生方に、胸を張ってくださいと僕は申し上げています。
もともと硯は巨大な字を書く時に必要な墨量が作れる道具ではないのです。成り立ちから見ても小筆揮毫環境に向けて発祥、設計されています。
今は自動墨磨り機がありますし、優秀な墨汁も開発されているので、書かれる大きさに合わせて使い分けてくださいとお伝えしています。
市販墨汁は時短的利便性と腐り難さの両方を兼ね備えています。便利=速度向上と安定性とすれば「時代が生んだ墨」だと言えるのではないでしょうか。
しかしながら大きな作品は勿論、いかなる時も市販墨汁を使わず、「書くのならば手磨りだ!」という考えをお持ちの書き手の方も確かにいらっしゃいます。
ここに展示されている作品も墨汁で書かれた作品がひとつもありません。
佐藤さんは普段、市販墨汁を使うことはあるんでしょうか? - 佐藤
- 年末年始のお寺の浄書のときくらいですかね。
高校の授業の時でもほとんど使わない。
衝撃的だったのは、生徒が「先生、どっちから黒いのが出ているんですか?硯?墨?」って言うんです。
それぐらい「磨る」ことから離れている。
硯で墨を磨ることの優秀性
この作品(佐藤作「舟」)は淡墨ですが、どのくらい墨磨りに時間を費やしたのでしょうか?(青柳)
- 佐藤
- 僕は淡墨を作るとき、最初かなり濃く磨り、徐々にのばしていきます。なので墨磨り1日、紙つぎ1日、という感じです。
- 青柳
- 墨作りに1日。書かれるまでに2日を要されているのですね。お使いの硯のサイズはどのくらいですか?
- 佐藤
- 硯は直径25センチの澄泥の丸硯なんですけど。墨は直径13センチくらいでかなり大きいものです。
- 青柳
- 大きな作品も小さな作品も日常の手紙も、佐藤さんは手磨りで臨まれていると思うんですけれど、手磨りで文字を書くことの優秀性について佐藤さんはどうお考えですか?
- 佐藤
- 磨るという行為が好きなのもあります。作品を書こうと思っていろいろな構想を練るわけですが、磨りながらどうしようかなと時間をかけて思案します。
それは墨汁で制作するよりも時間はかかりますが、歯磨きをする、お風呂に入るのと同じくらい墨を磨ることが日常になっていて全然苦じゃない。
優秀性といえば、例えば、臨書をするときに直径6ミリ×長さ5センチくらいの筆で半紙に4文字書く。
割と小さい筆ですが、ちゃんと磨った墨であれば力をかけなくても筆は開く、うまくいくと墨つぎしないで4文字書ける。墨汁でやるとそうはいかない。 - 青柳
- 書く前の行為としても、筆運びが良い点も、やはり心地の良い存在ですか?
- 佐藤
- とても気持ちがいいし、上質な文房四宝を使えば気持ちものる。
ずーっと書いていてもどこから出てくるんだろうってくらい筆から墨が出てくるのは、やはり磨った墨だからかな。あと筆にも優しいのかなと思いますし。 - 青柳
- お聞きしているだけでも心地良さが伝わってきますよね。
墨汁で書くのと実際に磨った墨で書くので、作品にはどのような効果の違いが出てくるのでしょうか。 - 佐藤
- 自分の求めている墨の色を追求するのには墨汁よりも磨った墨の方が調整しやすいと思うんです。
落ち着いた黒とか、ギトギトした黒とか、「墨に五彩あり」でしたか。
どのような黒にしようかと自分の中で考え、その黒に磨りながら近づけていく。 - 青柳
- ご自身の理想的な書き心地、墨色に調整できるのも手磨りならではということですね。
墨を磨ることが人間の五感に働きかけ、アイディアが生まれやすくなったりするのでしょうか?(青柳)
- 佐藤
- 大学1年生のとき、師柿下木冠先生の薦めで4日間の合宿へ参加しました。
合宿中、先生は2日間くらいずっと墨を磨られていた。なんで書かないでずっと墨を磨っているのだろうと見ていました。でもそのとき先生は考えられているんですよね。
4日間書きまくって作品を1点仕上げるより、墨を磨って気を研ぎ澄まして、ここだというときに筆を執って書く方が墨色も作品も冴える。
先生は何も教えてくださいませんから、真似してやってみたら、確かにじっくり磨ったほうが作品に向かっていくときの高揚感も違うと感じました。 - 青柳
- 墨を磨るということは、書く前の時間を作ることにもなっているんですね。
僕の知人でライターの方ですが、墨を磨る時の香りや時間が好きで、良いアイデアが湧くとおっしゃっていました。
せっかく磨ったから何か書くと話されていましたが。書くために磨るのではなくて、磨るために書くってパターンもあるんですよね(笑)
硯と墨への付き合い方、楽しみ方も様々ですが、ここの会場の作品に使われている墨はそれぞれどのような銘柄をお使いなんですか?(青柳)
- 佐藤
- いや、それぞれの経済事情によって違います...
- 青柳
- ちなみに、展示作品の中で一番高額な墨で、おいくらのものなんでしょうか?
- 佐藤
- …40万円くらいですかね。
- 青柳
- 墨って磨って書いてしまえば無くなってしまいますものね。40万円という金額がどうこうというものかは主人の心の中にあると思いますが。
はじめて佐藤さんと宝研堂でお会いしたときも、手頃で安定した墨汁が全盛の時代にこんなに高額な墨を求める若い人がいるのかと驚きました。 - 佐藤
- いい墨でしたね。
- 青柳
- そうですね。あの時思ったのですが、佐藤さんにとって墨は不可欠で絶対的な存在なんだと感じました。
無くなってしまうものに大金をはたいているという考えなんて皆無なんだなあと。
楽しまれていらっしゃいますよね。
墨を磨ること。墨を筆に含ませ、紙の内部に行き渡らせて作品を生んでいくこと。
なによりお話の中で終始笑顔で話される姿が「墨を求める」ことへの答えだと思ったんです。
磨って書くことに対しての愛情のあらわれですよね。
文房四宝のこれから
現在、筆離れされている方たちにも気軽に筆に携わってもらいたいなと思っていますが佐藤さんは何かお考えはありますか?(青柳)
- 佐藤
- みなさん入口の芳名帳は、筆で書いていただけましたか?
ご祝儀袋などを書くとき、筆ペンでもいいから毛筆というものを大切にしてほしいと思います。
日常に墨や硯があって何気なく使える感覚がみなさんの心の中に芽生えると、筆で字を書くということや書道に対する見方も変わってきます。
文房四宝への興味が湧き、書の未来も変わってくると思います。 - 青柳
- 筆離れの真逆で、筆慣れのすすめですね。
現代は何事にも時間が足りない世の中になっています。
書を始めた方の中には心にゆとりを持ちたいという思いがきっかけの方もいらっしゃると思います。
しかし展覧会の作品制作意外にも日常には仕事や家事もありますし、やはり時間に追われてしまっています。
書道でなくとも毛筆で書くこと自体、戦後の経済成長の中、とあるタイミングで日常の筆記具の中から薄れてしまいました。
他国の筆記文化の流入や利便性の追求もあったでしょう。なにしろ筆で字を書くには「磨る手間」が要ります。
伝達ツールなので以前には家に必ず筆も硯もありました。
それが今はスマートフォンやPCに変わったわけですね。
書くという行為から入力するという行為に、毛筆文化圏で暮らすぼくたちの生活は様変わりしてきています。
毛筆は特殊技能として、技術錬磨した方が整った字を書くための道具だと思われ始めています。
佐藤さんが仰る「何気なく使える感覚が心の中で芽生える」って大切ですよね。 日常生活を何気なく支えてくれる存在はきっと、合理性ではなくて、心に寄り添ったものなのかもしれません。