はじめに
Greeting

石の海を前に

日々。僕は、石の中に潜っている。
浅草の工房でも宮城の山中でも、心も体も石の海に胸まで浸かってバシャバシャと歩きまわっている。
「よし、ここだ!」という場所があると意を決して潜り、ひっそりと海底に佇む硯を両手でそっと掬い上げる。

こうしたことを繰り返しているうちに、いくつかの硯が成る瞬間に立ち会ってきました。しかしながら、石が転じて硯に成る、ということは残酷なものだと思います。人間が作る以上、うまくやらないときちんと駄作になるのです。

先日、あるテレビ番組でこのような話がありました。
アマチュアボクサーのパンチが偶然、プロボクサーに当たり勝敗が決まることはある。けれど、寝技の世界ではそのようなことは起こり得ない。そこには、稽古と鍛錬がもたらす必然しかないのだ、と。寝技などの関節技をサブミッションと言いますが、サブミッションは必然にして最強である、というのです。

なるほど、と分かったような気になった僕は、硯が成るということも同じく必然がもたらす領域であろうと結びつけ、いざ技術鍛錬と意気込んだわけです。

そこからひと月も経たず、僕の仮説はあっさりと覆されました。宮城県の御留石を採石できる好機に恵まれ、現場斜面を掘り続けていたときのことです。思いがけず、僕の予想をやすやすと裏切る極上の石層がひょっこりと顔を覗かせました。程なく、生まれたばかりの赤ん坊のような石を抱いて、「信じられないぐらいの良い石だ」と独りはしゃいでると、山の管理をされているY氏が教えてくれました。 「面白いでしょう。ここの石は奥に行くと予想外の石が現れたりするものです」

僕が潜っている石の世界は、まだまだ未知に溢れていることを思い知らされました。それはまるで海のように広く、深く、果てしない。もちろんそこに、硯が成る必然なんてありません。底知れぬ豊かさと可能性を持つ自然の組み合わせは、人間にとってしばしば奇跡的な出会いを与えてくれます。

有難い御縁から絶えず作硯に携わり続けることができたこの一年半は、二十四年の製硯師人生の中でも最も濃密に石と触れられた時間の一つでした。

大海原を前に、一人のボクサーとしてどこまでジャブを打ち続けることができるか。これからも未だ見ぬ石や硯を追い求める海底探索はきっと、果てなく面白い日々として待っていてくれることでしょう。

製硯師 青柳貴史

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プロフィール
Profile

青柳派四代目製硯師 青柳貴史

1979年2月8日 東京都浅草生まれ。
浅草で80年続く和漢文房四宝「寶研堂」四代目。

16歳より祖父・青柳保男、父・青柳彰男に作硯を師事。日本、中国各地の石材を用いて、各時代に対応した硯式(硯の製作様式)の硯を製作。さらに、修理・改刻・文化財の復元・復刻製作に従事している。20代より中国大陸の作硯家との交流を経て伝統的硯式の製法研究、現地石材調査を続けている。技術の継承だけでなく、二千年続く硯芸術の熟成を目指して新たな硯式の提案を自身の作品を通じて発表している。
一方、地球外の石(鉱物)を用いた硯製作など、硯に対して未知数の素材開拓も続けている。社会活動として学校などでの講演を通し、日常生活における毛筆文化の復活に注力。

seikenshi_official

【活動】

  • 大東文化大学文学部書道学科非常勤講師(2016年~)
  • 「夏目漱石」遺品の硯を修復 (2014年)
  • 「夏目漱石」愛用硯を復刻製作 (2017年)
  • 日本で初となる北海道での硯材採石、硯製作に成功 (2018年)
  • 世界初、月の石を硯化(2019年)
  • アウトドアブランド・モンベルと共同開発した「野筆セット」を発売(2019年)

【展覧会】

  • 個展「青柳派の硯展」(2018年2月20日~3月5日)
  • 個展「~日々~ 製硯師青柳貴史の硯展」(2019年11月17日~24日)

【著書】

  • 「製硯師」 (天来書院 / 2018年刊)
  • 「硯の中の地球を歩く」 (左右社 / 2018年刊)

【主な出演歴】

  • TBS「情熱大陸」
  • NHK「美の壺」
  • TBS「クレイジージャーニー」

【主催】宝研堂 【共催】エスパス・ビブリオ
 【撮影】齋藤芳弘
 【演出・サイト制作】藤田圭(Kei’s Factory)
【協力】ノースプロダクション、スーパースタジオ

※在宅美術館内『日々』展のギャラリーは、
スーパーエディション出版書籍「青柳貴史の仕事」「図録作品集」掲載写真と情報をもとに構成されております。
無断転用は何卒ご遠慮くださいませ。