日々。僕は、石の中に潜っている。
浅草の工房でも宮城の山中でも、心も体も石の海に胸まで浸かってバシャバシャと歩きまわっている。
「よし、ここだ!」という場所があると意を決して潜り、ひっそりと海底に佇む硯を両手でそっと掬い上げる。
こうしたことを繰り返しているうちに、いくつかの硯が成る瞬間に立ち会ってきました。しかしながら、石が転じて硯に成る、ということは残酷なものだと思います。人間が作る以上、うまくやらないときちんと駄作になるのです。
先日、あるテレビ番組でこのような話がありました。
アマチュアボクサーのパンチが偶然、プロボクサーに当たり勝敗が決まることはある。けれど、寝技の世界ではそのようなことは起こり得ない。そこには、稽古と鍛錬がもたらす必然しかないのだ、と。寝技などの関節技をサブミッションと言いますが、サブミッションは必然にして最強である、というのです。
なるほど、と分かったような気になった僕は、硯が成るということも同じく必然がもたらす領域であろうと結びつけ、いざ技術鍛錬と意気込んだわけです。